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箏の歴史

■ お箏の歴史 ■

箏は中国の戦国時代(前5~前3世紀)に侯国の一つ秦(しん)で生まれたといわれ、秦箏ともよばれた5弦の楽器であった。
漢代、ことに後漢(ごかん)(25~220)には俗楽の一種である清楽(せいがく)用として12弦の箏があり、同じころか少し遅れて13弦の箏も現れる。
続いて三国時代と晋(しん)代には12弦の箏が一般的であったが、唐代(618~907)では12弦を清楽に用い、その他は13弦が一般に用いられた。

日本へはこの13弦の箏が奈良時代に伝来して、雅楽の管絃(かんげん)の編成楽器として用いられた。
これを楽箏(がくそう)という。
その後、室町時代に雅楽と中国の七絃琴の音楽の影響下に、
九州・久留米(くるめ)の善導寺(ぜんどうじ)において賢順(けんじゅん)(?―1636)が筑紫(つくし)流箏曲(筑紫箏(ごと))を確立した。
これを母体として、江戸時代初期の八橋検校(やつはしけんぎょう)以降、
近世箏曲(八橋流、生田(いくた)流、山田流(やまだりゅう)などのいわゆる俗箏(ぞくそう))が成立し、大発展を遂げた。
さらに、大正時代、新箏曲の出現とともに、低音用の十七絃、十五絃、独奏楽器としての八十絃、三十絃、二十絃などの多弦箏がつくられた。

■ お箏の祭 ■

「こと」のお祭りと言えば、忘れてはならないものがあります。
それは皆さんが絶対知っている七月の風物詩「七夕」です。
七夕はすでに「万葉集」に「天漢 楫の音聞こゆ 彦星と 織女と 今夕逢らしも」(天漢…あまのがは 楫…かぢ 織女…たなばたつめ)
という歌がみられるように、その起原は古いです。
中国の「乞巧奠」の風習が、日本の「棚機(たなばた)」と習合し、日本で独自の発展をとげました。
七夕の古代の祭りの意味は、書道や裁縫、音楽の上達を祈るものでした。
故に、箏も置かれるのです。

年中行事で七夕は毎年催され、いろいろな供物とともに、御所から箏一張を戴いてきて、東北から西北の机の北側に懸けて横たえます。(延喜十五年のときには和琴をつかったそうですが…)
箏柱の立て方には三通りありますが、普通は半呂半律で秋調子にしておくそうです。
〔僕にも良く分かりませんが、雅楽の理論では、さまざまある音階を呂と律の二つにまとめて考えたそうです。
そのうち商調(ドレミファソラシ♭)と微調(ちちょう…ドレミファソラシ)を半呂半律とよぶことがあったそうです。〕
で、そのセットの前で天皇が牽牛と織女が出会うのをご覧になるそうです。
このとき、管弦の遊びをしたり、詩文を作ったりするそうですが、これでは完全に本来の「祈り」からは遠ざかっている気がしますよね…。

江戸時代にもなると、民間にも広まり、年頃の乙女達が現代の形のように短冊をかいたり、歌や字を書いてかざりつけたそうです。
そして、その時にもまだ箏は飾られたりもしていました。
しかし、箏がしだいに女性の身だしなみの一つとして、必要となくなりはじめると、七夕からも姿を消し始めます。
こうして、日本の風物詩は姿を変えて現代に残っているのです。

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